歴史に光を残した人々

マーティン・ルーサー・キング・Jr.

From BEL No,34

【マーティン・ルーサー・キング・Jr.(若き日の屈辱)】

『風と共に去りぬ』の舞台として知られるジョージア州アトランタ。1929年1月15日、この町の黒人牧師の家に長男が誕生します。「20世紀のヒューマニスト」として知られることになるマーティン・ルーサー・キング・Jr.です。アトランタ州の人種隔離社会のなかで育ったとはいえ、若き日のキングはあらゆる屈辱を経験して育ちました。そしてその屈辱ゆえに、アフリカ系アメリカ人としての彼のアイデンティティはかえって強固に確立されていったようです。

その頃、黒人は公園にも映画館にも入れないなど、黒人に対する抑圧や野蛮な状況はアメリカ社会の至るところで見受けられました。警官の蛮行や法廷での不当な判決など、彼らを取り巻く現実は大変過酷なものでした。

マーティン・ルーサー・キング・Jr.が、モンゴメリー市の黒人教会に牧師として赴任した当時にローザ・バークス事件が起きました。ローザ・バークス事件とは、ローザ・バークスという黒人女性が市の条例に反し、運転手の命じるままにバスの座席を白人乗客に譲ることを拒絶した事件です。事件が起きたその日、黒人の指導者グループは早速会合を持ち、『モンゴメリー改革促進協会(MIA)』を創設し、26歳の若きキングはその会長になります。

当時の決起集会における見事な演説は、彼のリーダーとしての資質を十分にうかがわせるものでした。この講演でキングは、自分たちはクリスチャンであるから決して暴力に走ってはいけないこと、自分たちに許されている唯一の武器は「抗議の武器」であることを強調しました。

彼が拠って立つ根拠はアメリカ建国の精神の源泉であるキリスト教であり民主主義だったのです。

以後、キングは人種差別主義者から目の敵にされ、翌年1月30日には自宅に爆発物を投げ込まれます。しかしそこで彼が語った、「暴力で報復しても問題は解決されない。憎しみには愛で報いなければならない。」という言葉は群衆の胸を打つものでした。事件は全米に報道され、これにより黒人リーダーとしての彼の立場は決定的なものとなります。

【ガンジーとの出会い】

キングのこの非暴力的抵抗の思想は、マハトマ・ガンジーに由来します。

彼はガンジーを研究することにより、真の平和主義とは「悪への非抵抗」ではなく、「悪への非暴力的抵抗」であることを確信していました。この考えは、「悪の力への非現実的な降伏」ではなく「愛の力による悪との果敢な対決」であり、暴力の加害者となるよりは被害者になる方が良いという信念に基づくものです。なぜなら、加害者は宇宙の悪と憎悪を増幅させるだけであるのに対し、被害者は敵対者の羞恥心を呼び覚まし、精神の転換と変革をもたらすからです。

1956年には、人種差別撤廃を求めるための「南部キリスト教指導者会議(SCLC)」が結成され、キングはその議長に就任します。しかし、黒人の運動の高まりとともに、白人優越主義者の抵抗も強まりました。さらにキングは突然の災難にも見舞われます。

1958年9月20日、ニューヨークで初出版した本のサイン会で、精神の錯乱した黒人女性に突然ナイフで胸を刺されたのです。一命は取り留めましたが、治療には長い時間がかかりました。

傷が癒えた翌年2月、キングは戦線復帰を前にインドへ旅立ちます。尊敬するガンジーの足跡を巡礼する中で彼は、カースト制度の犠牲者である不可触民(アンタッチャブル)を目にし、彼らの生活のあまりの悲惨さに大きな衝撃を受けました。

また、ある講演会での「アメリカから来ているアンタッチャブルの仲間を紹介します!」という発言に彼は怒りがこみ上げてくるのを感じずにはいられませんでした。

しかしすぐに「世界一豊かな国で貧困の檻に閉ざされている黒人は、アンタッチャブルに違いない」と考え直します。そして、自らもガンジーのように闘うことを心に固く誓うのでした。

インドから帰国したキングは、ガンジー流の非暴力の理想と簡素な生活に以前よりも深く没頭するようになりました。そしてさらに運動を進めるにおいて、「黒人の生活水準を低める根本的な原因である隔離体制に抵抗し続ける一方、これまでアメリカが無視して来た民衆の貧困、疾病、無教育に対して真正面から取り組むことによって、黒人の生活水準を建設的に改善する必要がある」という考えに至りました。

【アイ・ハブ・ア・ドリーム!(私には夢がある!)】

このような考えを実践するにおいて、キングが実行に移したのが1963年のワシントン大行進でした。当日、8月28日は25万人が結集し、「フリーダム・ナウ!(今こそ自由を!)」の叫び声とともに大行進を繰り広げたのでした。

午後1時、リンカーン・メモリアル前の広場で、熱狂的な拍手とともに集会が始まり、彼は語り始めます。「いまから100年前」―彼はリンカーンの奴隷解放宣言の名句を引用し、この歴史的な名演説を始めました。やがて、「私には夢がある!」と霊感に満ちて叫んだスピーチは、非暴力運動の盛り上がりが頂点に達した歴史的瞬間でもありました。

【ノーベル賞受賞】

1964年1月3日付けタイム誌は「マン・オブ・ザ・イヤー(その年を代表する人)」にキングを選び、表紙を飾ります。さらに10月には、キングにノーベル平和賞が授与されました。

彼はこの賞を公民権運動全体への栄誉として受けることを喜び、ロンドンのセント・ポール大聖堂で講演し、5万4千ドルの賞金全てを黒人運動のために捧げると公約しました。

ノーベル賞を受賞した後、キングはアバラマ州セルマへ着目します。そこは人口の過半数を黒人がしめるものの黒人の選挙人登録数が350人にしかすぎない町でした。彼は投票権こそ黒人が自分自身の運命を決めるのに重要な鍵だと考え、セルマで黒人の投票率獲得のため活動を起こします。1965年3月7日、約600人のデモ隊はセルマからアバラマ州の首都モンゴメリーまで54マイルの行進に出発しました。ところがこの行進は州警察隊に阻止され、警棒や催涙ガスで暴力的な弾圧を受けてしまいます。各新聞はこの事件を「血の日曜日」と呼び、暴力行為を一斉に報道したのでした。それにもかかわらずKKK(顔がわからないように白いフードをかぶって、黒人を弾圧する白人の秘密集団)の襲撃を受け、数十人の負傷者を出し、白人牧師が死亡。ついにジョンソン大統領は投票権に関する新たな公民権法案の提出を約束し、連邦地方裁もセルマのデモを合法と認めるに至ったのでした。

【人間マーティン・ルーサー・キング・Jr.】

近年、キング牧師の人間的な弱点についての指摘が多方面からなされています。しかし、大切なことは彼がそのような人間的弱点を持っていたにもかかわらず、人間の正義と神の愛という「大義」のため最後まで歩み続けたことです。これは、同じような弱さを持った私たち一人ひとりへの招きでもあるように思えてきます。

そしてついに1965年8月、黒人の選挙権を守る公民権法がジョンソン大統領により著名されました。ところが5日後、ロサンゼルスの黒人居住区ワッツで過去最大規模の人権暴動が発生します。これを受けキングは、今まで通り非暴力的抵抗に対する信念を貫くのか、反対してきた暴力と折り合うのか苦渋の決断を強いられるのでした。

1968年3月28日、キングはミシシッピー州メンフィスに赴き黒人清掃労働者たちのデモ行進の先頭に立ちます。4月3日夜には、体調が悪かったことも忘れ1時間半に渡り語り続けました。

さらに翌4月4日、キングは終日ホテルでスタッフたちと今後の運動のことなどについて話し合いました。しかし、その日の夕食時一発の銃声が鳴り響きます。キングは何者かが放った銃弾を頭部に受けその後一言も発することなく1時間後の午後7時5分、運び込まれた病院で生涯を閉じます。39年という短い人生でした。

【受け継がれる夢】

キングの「夢」は、絶望的な「悪夢」の連続の中でさえ未来に向かって強く紡がれていきます。「私には夢がある」の名演説から40年目の2003年8月には、キングの夢を受け継ぐ人々によって40周年を記念する集会がアメリカのいたるところで行われました。

今や黒人の活躍の場は政治の枢要にまで及んでいます。マーティン・ルーサー・キング・Jr.が蒔いた種は様々な人々によって育てられ、アメリカ建国の精神である自由・平等、そして平和の支柱となりつつあるのです。

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