歴史に光を残した人々

ラビンドラナート・タゴール

From BEL No,17

【タゴールの生い立ち】

ラビンドラナート・タゴールは、ヒンズー教への篤い信仰心と高潔な人柄を持ち合わせたデベンドラナート・タゴールの14人兄弟の末子として1861年5月7日にカルカッタで産まれました。そして幼き日の彼は、ヒンズー教の、自然の中に神を見出し尊ぶ教えの影響を大きく受けながら豊かな心を育み成長していきます。

少年タゴールは感受性豊かな少年でした。詩との出会いは8歳の時。「ジョル・ポレ、パタ・ノレ(雨はぱらぱら、木の葉はざわざわ)」という韻の詩句を読むや、彼の心は言い知れぬ喜びに震えます。それは彼が生涯で最初に触れた詩句であり、彼は幼くして詩作の歓びを知ったのでした。11歳になったタゴールは、父に連れられて産まれて初めての旅に出ます。旅の中で、父は息子に神への賛歌をうたって聴かせ、タゴールは「頭を垂れ、手を握りしめて熱心に聞き入る」のでした。この旅で、少年は神に対する父の一途で敬虔な信仰心を無言のうちに吸収し、それを生涯真理への求道の範としたのです。

【生命の詩人タゴール誕生】

そして1882年、タゴールがある朝カルカッタにある兄の家のベランダから眺めた自然の景色に深く胸を打たれます。この瞬間、彼は有限なる時間のなかに永遠なるものの実在を直感したのです。それは、ヒンズー教を信仰する中で彼が豊かな自然の中に神を見出した瞬間であったのかも知れません。この精神体験以来、タゴールの瞳には存在する全てのものが歓び輝いて映り、真の自我を見出したという歓びは、彼の心から生涯離れることはありませんでした。ここにおいてタゴールはその名の如く「生命の詩人」として生まれ変わったのです。

【妻ムリナリニとの出会い】

精神体験のあった翌年1883年、タゴールは10歳の少女ムリナリニと結婚をします。彼女は、細やかな気遣いで家庭を包み、詩人であるタゴールの創作活動を支えました。タゴール夫妻にとって結婚生活は、愛と人格と仕事の創造の場であったのでした。

【黄金色に輝くベンガル】

1891年、30歳になったタゴールは父の命を受け、一族の農地の管理のため東ベンガルのシライドホへと赴きます。彼はシライドホの自然に美を見出し、その美しさへ愛おしさと賞賛の念を抱きました。しかし、自然の景観から一転して傍に眼をやると、そこには貧しさと虐待に慣れきってしまった農民の姿がありました。イギリス東インド会社が導入した地租徴収制度により伝統的な農村の社会秩序が完全に破壊され、農民たちは過酷な状況で労働を強いられていたのです。

そこで彼は、「農民たちの自己蔑視や依存心を払拭させ、自立心を取り戻すことが大切だ」と考えます。農業協同組合的な自治組織を設立し、農閑期の副業として織物などの家内工業の推奨、道路などの補修も村人が自力で行うよう説いて回るなど活動していきました。

そして「国とは、国民一人ひとりの尊い存在から成り立っている。我々はその事実を重く受け止め、この農村に救済の手立てを講じるべきである」と、一人の人間として同胞に熱く呼びかけたのでした。この発言からも、彼の熱い愛国心や同胞愛が伺えます。また一方では政治集会などにも参加し率直な発言をします。その発言によりカースト制度に寄りかかっているヒンズー教徒らの反発を招きますが、彼はやめませんでした。こうして人と自然に一層広い視野と想像力を持ったラビンドラナート・タゴールが誕生したのでした。

【詩人の学校】

1901年、タゴールは妻と5人の子供たちを連れて自然豊かなシャンティニケケタンに移住しました。そして、現地に小さな私塾を発足します。彼はそこで、自然を教師とし友として知性の発達とともに豊かな感性を育てる全人教育を子供達に施そうとしたのでした。

タゴールのこの学校は、20年後に国際大学、さらに独立後は歴代大統領が学長を務める国立大学として発展を続け、現在に至っています。

【苦悩をも昇華して】

このように新しい世紀の始まりはタゴールにとって一大転機となりましたが、筆舌に尽くし難い過酷な試練の歳月でもありました。先ず学校創立の翌年1902年、妻のムリナリニがこの世を去ります。更に翌年12歳の娘レヌカを、ついで1905年には敬愛する父を失い、2年後には末子ショミンドロナトまでも奪い去ったのです。タゴールはわずか数年の間に愛する身内を相次いで喪うという不幸に見舞われ、絶望の淵に立ちます。しかしそこで、彼は改めて生と死に正面から対時し死をも大きな生命の一部と見なして愛おしむ、独自の生命哲学に到達したのでした。「死がなければ、人生は未完成―なぜなら私たちの存在も所有も愛も、人生のすべての営みは刻々と死という永遠の大海に向かって流れて行くものだから―」。死という概念をも、人生をより価値あるものとする糧として敬意を評し、昇華していったのでした。

【東洋で生まれた詩】

1912年にタゴールはイギリスへと旅立ちます。この時、長い船旅のつれづれに翻訳した自作の詩の英訳がロンドン滞在中、アイルランドが誇る世界的詩人であるW.B.イェーツの手に渡り、1912年6月30日の夕べにロンドンのハムテッド郊外で催された詩の朗読会で彼により朗読されます。タゴールの詩の中に歌われている「あなた」とは紛れもなく「神」を指しています。彼の理想には人格的な神が欠かせません。彼はこの大いなる存在の前に世俗の一切の虚飾や自己主張を捨て、幼子のような純真さ、素朴さをもって、自己の存在のすべてを詩に昇華していました。

外国人として初めて詩人タゴールを見だしたのは、イギリス人肖像画家でありこの朗読会の主催者でもあるサー・ウィリアム・ローセンスタインです。彼がタゴールと出会った時、彼は一見して50歳ほどの物静かな男でした。しかし、美しい姿勢、濁りや邪悪さや傲慢さに汚れることのない顔立ち―-。タゴールの内面から溢れ出たものがローセンスタインの眼には、まるで”全き人生”に対する強い意思が風貌や肉体に現れているかのように映りました。当時の出会いの様子についてローセンスタインは、タゴールに「あなたの肖像をかいてもいいですかと尋ね、思わず鉛筆で素描を試みたほどであった」と回想しています。

【アジア初のノーベル文学賞受賞】

朗読会の催された翌年1913年、その詩集にノーベル文学賞が授けられ、タゴールは一躍世界の桂冠詩人となったのでした。

これはアジア人初のノーベル文学賞受賞で、このニュースはインド国内だけでなくヨーロッパ諸国やアジアの国々にも大きな反響を呼び起こします。それは更に、インド国民の詩人と連体感を与えることにもなったのでした。

【静かな改革者としての道】

また、タゴールという人物を表す出来事に1919年に起きたアムリッツアルの大虐殺事件があります。この事件は、1919年4月13日に、インド北部のアムリッツアルでイギリス軍が非武装の民衆に機関銃の無差別掃射を浴びせ、死者千数百名を出した惨事でした。

そこで彼は、総督に宛て一通の書簡をしたためます。

『私がせめても国のためになし得ることは、幾百万の同胞の抗議の意志に声を与えることです。人間に値しない侮辱を嘗めさせられてきた人たちの側に、同胞の傍らに立ちたいと存じます…』タゴールは抗議運動を組織した後、総督に宛てしたためた一通の書簡によりノーベル賞受賞に際して政府から送られた称号を変換する旨を公言したのです。こうして彼は傷付いた人々の心に寄り添う姿勢を貫きました。その熱い愛国心や同胞愛、彼の毅然たる態度は国民に自尊心を回復させ、国民が最も必要としているときに彼らに勇気と信念を与えました。

【永遠との合一を求めて】

1941年8月7日、ラビンドラナート・タゴールは静かにその生涯の幕を閉じます。

彼はその生涯を通して、民族や国境を超えた人間への愛を実践し、時空を超えた永遠との合一をひたすらに求め続けたのでした。彼の生涯は決して苦悩や悲しみを知らぬ平穏な歳月ではありませんでしたが、彼はその生涯に高潔さと愛を持って向き合い続けました。地球、人生、生命を愛おしむ。そんな素直で謙虚な姿勢を貫くことであらゆる苦しみを昇華していったのです。彼のその高潔な精神と深い同胞愛は今でも人々の心を惹きつけています。1950年1月24日には独立したインド議会によって、タゴールがベンガル語で作詞し作曲しジャナ・ガナ・マナがインド国歌に採用され、今も尚彼の存在は変わらぬ輝きで持って人々の心と共にあります。タゴールは全ての人々の心の祈りや思いをうたった「生命の詩人」なのであり、「近代インドの精神」と呼ぶにふさわしい理想的人格なのです。

この偉大な宇宙の中に

この偉大な宇宙の中に 

巨大な苦痛の車輪が廻っている

星や遊星は砕け散り

白熱した砂塵の火花が遠く投げとばされて

すさまじい速力でとびちる

元初の綱の目に

現在の苦悩を包みながら。

苦痛の武器庫の中では

意識の領野の上に広がって、赤熱した

責苦の道具が鳴りどよめき

血を流しつつ傷口が大きく口をあける

人間の身体は小さいが

彼の苦しむ力はいかにはてしないか

創造と混沌の大道において

いかなる目標に向かって、彼はおのれの火の飲物の杯あげるのか

奇怪な神々の祝宴で

彼らの巨大な力に飲み込まれながら––––おお、なぜに

彼の粘土のからだをみたして

狂乱した赤い涙の潮が突進するのか?

それぞれの瞬間に向かって、彼はその不屈の意志から

かぎりない価値を運んでゆく

人間の自己犠牲のささげもの

燃えるような彼の肉体的苦悩––––

太陽や星のあらゆる火のようなささげものの中でも

何ものがこれにくらべられようか?

かかる敗北を知らぬ剛勇の富

恐れを知らぬ堅忍

死への無頓着––––

何百となく

足の下に燃えさしを踏みつけ

悲しみのはてまで行く、このような勝利の行進 ––––

どこにこのような、名もなき、光り輝く追求

路から路へと辿る共々の巡礼があろうか?

火成岩をつき破るこのように清からな奉仕の水

このようにはてしない愛の貯えがあろうか?

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